蒲生神社
〒320-0027 栃木県宇都宮市塙田5-1-19
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蒲生君平先生は宇都宮市に生まれた江戸後期の学者である。祖先が会津藩主蒲生氏郷公であることを知り蒲生の姓を名乗った。幼少より学問を好み、多くの先生に学び交わり、全国の天皇陵や旧蹟を巡りて、『山稜誌』を著した。晩年は子弟に学問を教えながら、著述に励むも、志半ば、四十六歳をもって江戸に没した。明治二年十二月、明治天皇は先生の功績を賞し、勅旌碑が建てられ、さらに明治十四年五月正四位を御贈位された。
大正元年、蒲生君平先生九十九年祭執行の際、神社創建の話が起こり『蒲生会』が結成し、栃木県民あげての賛同により大正十五年七月に蒲生神社本殿が竣工された。 その後、『蒲生会』は『蒲生神社奉賛会』となり県下をはじめ全国に多くの崇敬者を得て今日に至っている。蒲生神社例大祭は先生の命日である七月五日に厳粛に行なわれ、毎月五日には、月次祭が行なわれている。
明治二年十二月、明治天皇は蒲生君平先生の著わした書物や志操が明治維新の大業に貢献したとして『君平の人となりや行いがまことに立派であるからこれを広く郷里に表わし庶民に知らせるように』と勅命を太政官にお下しになった。太政官からこの命を受けた宇都宮藩知事戸田志友は、さっそく奉行となって宇都宮の入口である南新町にその碑を建てた。 これが現在花房町三丁目道路東側にある蒲生君平勅旌碑である。 碑の高さ一、三米正面に『勅旌忠節蒲生君平里』と刻まれ、右側に宇都宮藩知事戸田志友、左側に明治二年己巳冬十二月藩文学教授戸田誠謹書とある。 また東京谷中の臨江寺門内にも正面に『勅旌忠節蒲生君平墓』と刻まれた同様の建碑があり、書は久我建久となっている。 この後七年を経て明治九年六月五日、明治天皇が奥州御巡幸の途中で宇都宮南口の勅旌碑の前に聖駕をとどめられ、拝観の人々を遠ざけてややしばらく碑をご覧になられ、大義を明らかにした蒲生君平の気節を深く御思い遊ばされた。 この碑は昭和三十六年九月十八日宇都宮市の文化財に指定され、数年前には市教育委員会が七百五十万円の予算を計上して碑の周辺石垣その他を改修し、蒲生先生の年譜や遺跡を巡る道順を記した掲示板二面を新設している。
明治十四年五月三十一日蒲生先生の没後六十九年に、特旨をもって国より正四位の位階が追贈された。この御贈位により宇都宮、東京の有志間で二荒山神社境内に一大記念碑を建てその志操功績を不朽に顕彰しようとする話が起り、全国的の資金募集が行なわれた。その結果全国有志の賛同を得て明治二十二年六月十二日、碑の高さ三、六米巾二、四米の仙台伊奈石の堂々たる大碑が大谷石台上に厳然と建てられた。 現在神社西参道北側に移された『贈正四位蒲生君平碑』がそれである。篆額が大勲位有栖川熾位親王の御染筆で、選文は文学博士重野安繹、書は元老院議官巌谷修氏の手になっている。十年前この碑が道行く人にかえりみられないのを憂えて、市内の高崎久雄氏が自費を投じて説明板を碑前に設置した。碑面の選文が難解で読みづらいので、漢文を読み下しにした印刷物を希望者に頒布するよう二荒山神社社務所に委託してある。
蒲生先生は文化十年七月五日四十六歳をもって江戸で没した。遺骸は藤田幽谷はじめ友人知己の手によって東京谷中の竜興山臨江寺に手厚く葬られた。 しかし明治十四年御贈位の恩典と共に有志によって改葬の運動が行なわれ、その頃宇都宮市内清住町一丁目桂林寺にある蒲生家墓所に遺髪が葬られた。宇都宮藩士県六石の日記に明治十四年九月十二日松井良吉、松本孫平蒲生氏改葬一件相談に来ると記されている。墓は最近遺族により移され墓所の正面松樹の下にあり、墓石の表面に父母の戒名廓翁諦然居士と覚応貞樹大姉が並び、左側面に『文山義章居士蒲生君平』と刻まれている。生前父母に孝養の厚かった先生が父母の墓に合葬されていることは意義深い。この左にある自然石二米の『贈正四位修静院殿文山義章大居士』の立派な碑は明治三十五年七月五日九世の子孫蒲生又右衛門が建てた慰霊碑である。碑面の字は元宇都宮藩家老藤田安義の謹書による。
蒲生先生は幼時から物覚えが極めて早く読書を好んだ。安永二年六歳の時近所の泉町にある延命院で、そこの住職良快和尚について読書習字の手ほどきを受け、四書五経の素読を教えられた。その頃蒲生氏に関する『移封記』を筆写し現在その書が遺族の家に残されている。良快和尚は先生が九歳の時没しているが、その後も引続きこの寺で修学を続けたらしい。 昭和四十三年先生の生誕二百年を記念して、住職の小針孝哉氏が寺の山門前に修学の碑を建立した。『蒲生君平先生修学の寺』と約二米の石柱に刻まれ、字は民芸家塚田泰三朗氏の筆になる。
蒲生先生の石像は、宇都宮市立東小学校の校庭正門のすぐ向かって左側にあり、わが国紀元二千六百年を記念して、昭和十五年十一月十日に建てられたものである。石を五段に積みその台上に据えられた上下姿の先生の坐像は珍しいものである。恐らく終戦後二宮尊徳像など多くのこわされた校庭像の中で、唯一の残された石像であろう。寄贈者は市内大町の塚原久次郎、謹作者は福田昴と石の裏面にその名が刻まれている。
『前方後円墳』の名付け親である蒲生君平先生の偉業をたたえ、その前方後円墳をモチーフした公園となっている。
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